お袋


小学校の低学年の時でさえ、僕たち3人の兄弟の前には居ませんでしたね。

いつも親父と一緒に大型トラック(11トン箱車)で日本国中のターミナルに
物資を運び回っていました。

家に帰って来るのは、決まってお盆と正月のみの2度程で、それ以下の年も有りました。
生活はというと当然のことの様に父方の親となり、爺さん婆さん子になっていました。

勿論!学校の行事や地区の催し、その他もろもろ含めて参加して貰える事は不可能で、
僕ら3人の兄弟はかなり寂しい思いをしていました。

自分らの家は違うんだ。親が長距離トラックの運転手だからと言い聞かせて、
いつの日からそんなのも口にする事もなくなっていました。

それでも何処かで、年に一度.二度は逢える。その時は思う存分に甘えて好きな物を
買って貰えると思っていたものでした。

月日がたち低学年から高学年へと差し掛かっていました。
これまで逢った回数は片手で足りてしまうでしょうか?

そんなんだから逢えたとしても、話もしどろもどろで、親なのに他人行儀でなつけない。
短い時間でも反抗的になりギクシャクしていたのを覚えています。
長男の自分がお袋に甘えている姿を、下の兄弟が見たらどう思うか…出来ませんでした。

滞在と言っても2・3日で別れは早いです。慣れているっていてもやっぱり寂しい。

親父.お袋、今度いつ逢えるかな?って毎回心の中で思っていましたよ。
当然のこと誰にも話すことが出来ませんでした。

なんででしょうか?兄弟はもとより。親なのに遠慮をしていたんでしょうかね?。
こちらが爺さん婆さんと楽しく平穏に暮らしていけているので、何の気も留めず
出かけられるのでしょうか。(本当は……違うのに)

自分は3歳上の長男で下の兄弟はもっともっと辛く悲しい感じでいたと思います。

高学年も6年生になった夏頃に、突然旅先でお袋が亡くなったと連絡が入り、
学校から帰ってきました。

帰っても家庭事情を知っている自分達なので、お袋の亡き骸があるわけでもなく、
只々ボーっとしていた記憶があります。

後にも先にもこの時、お袋が亡くなったにも関わらず何故か、涙の一粒も流れ
出てきませんでした。

思い返すとそれだけお袋に対して冷めきっていて、なんの感情も湧いてこなかった
の様に思います。

生まれて物心が着いてから数えるほどしか逢えていないお袋であっても、
生んでくれて自分が今こんな感情でいられるのも、お袋のお陰です。

感謝しかありません。ありがとうございました。

自分も58歳、もうとっくにお袋の生きた歳を超えてしまいました。
そちらえ行ったら是非思う存分親孝行させて下さい。

その時はそちらから声をかけて下さい。

お袋の顔を思い出せないのでどうか宜しくお願い致します。



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